逗子市議会 2020-12-10 12月10日-02号
ベトナム戦争。復興をだんだん遂げてきた日本、少しずつ変わります。1965年、武器輸出三原則が佐藤栄作、時の首相の発言で出ます。1976年には、憲法精神にのっとり、武器輸出を慎むと当時の三木首相は発言します。その間、1973年、ニクソン大統領がベトナム戦争の終結宣言をしますけれども、朝鮮戦争ほど、ベトナムでは日本の支援が受けられない。あのような悪夢にベトナム戦争は終わるということです。
ベトナム戦争。復興をだんだん遂げてきた日本、少しずつ変わります。1965年、武器輸出三原則が佐藤栄作、時の首相の発言で出ます。1976年には、憲法精神にのっとり、武器輸出を慎むと当時の三木首相は発言します。その間、1973年、ニクソン大統領がベトナム戦争の終結宣言をしますけれども、朝鮮戦争ほど、ベトナムでは日本の支援が受けられない。あのような悪夢にベトナム戦争は終わるということです。
首都圏に大きな米軍基地が点在し、この横須賀にも基地が置かれ、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争では出撃拠点となったことから考えれば、日本に点在する米軍基地の任務は、日本を守ることでなく、米国の世界戦略の拠点であることは明白です。 かつてチェイニー元国防長官は、「米本土以外の空母戦闘群の母港は横須賀だけであり、我々にとって死活的である。
ご存じのとおり、普天間基地はベトナム戦争のときには最大の拠点の1つとなって、駐留する米軍の部隊は殴り込み部隊として悪名高い米軍海兵隊であります。これこそ、無条件で閉鎖、撤去すべきものであると考えています。 沖縄の建白書は、米軍普天間基地を閉鎖、撤去し、県内移転を断念することが基本理念であり、故翁長前知事が命懸けで貫いた立場でした。
かつてベトナム戦争があって、冷戦があって、米軍といろいろ問題があったときに、1人で戦いを挑んだときもありました。日米地位協定はおかしいではないかなんて、これは当然の話で。僕は徒党を組むのが嫌いだから、1人で戦いを挑んだときがありました。だけど、その流れの中で今、やっとこういう時代が迎えられたと思っているのです。
昭和25年には朝鮮戦争が始まり、厚木基地は米軍機の修理、補給、偵察基地として使用され、ベトナム戦争でも厚木基地が使われています。 昭和46年、厚木基地の一部を自衛隊に移管することが合意され、昭和48年10月には、米空母ミッドウェーが横須賀に入港、艦載機が厚木基地に飛来、爆音が深刻な問題になります。自衛隊の移駐に反対する当時の石井大和市長は南関東防衛局で座り込みの抗議をしています。
日本もベトナム戦争の後に大和のほうで定住促進生活センターがあって、今いちょう団地などありますけれども、多くのインドシナ難民を受け入れていました。
ちょうどそのころというと、ベトナム戦争でアメリカという中にカウンターカルチャーの一つとしてヒッピー文化などが出てきて、そんな中でサイケデリックという言葉が出ていたんでありますけれども、それが現在風に洗練された感覚を取り入れて、何だか高度成長期を思わせるような華やかな雰囲気の中に、荒れた雰囲気を抜いたというようなものが出ています。
そこで、少し調べてみると、米軍は、第二次世界大戦、ベトナム戦争、湾岸戦争を通じて、疲労への対処、眠気防止、注意力の喚起などのために大量のデキストロ・アンフェタミン、通称スピードを配布し続けていたという記事を見つけました。
それが朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争で、激しい戦闘のもとで多くの命が奪われ、大勢の犠牲者の姿が戦争の悲惨さを物語っております。 今日でもシリアを初め、どこかの国々で内戦などが勃発し、激化しつつ、戦争へと拡大しかねないゆゆしき状況にある事態が続いているのが現実問題です。
戦後さまざまな状況の中で日本に残らざるを得なくなった方、いらっしゃいますし、ベトナム戦争のときには、県営いちょう団地に難民が受け入れられて、その家族が今も市内に住んでいらっしゃいます。また、近年では、仕事や文化の交流の中で日本に来られる方もふえております。
時代の変遷というのがあって、私はもちろんベトナム戦争、東西冷戦、その真っただ中にあった横須賀の中で、平和を愛して、それを訴えてきたことも事実です。さまざまな流れがある中で、今北朝鮮も含めて新たな緊張関係がある。その中でまた日本の役割、横須賀の役割というのは本当に重要になってきているというふうに私は思っているのです。
1970年代になると自衛隊の使用が始まり、ベトナム戦争が終わると空母ミッドウェイが横須賀を母港化し、空母艦載機が厚木基地に駐留するということになり、住宅地のど真ん中に他国の軍隊が居座り、通常では考えられないほどの爆音をまき散らしながら45年が経過をしています。
昭和16年に日本海軍の弾薬庫とするため、強制収用されて以来77年の時が過ぎ、この間、日本海軍から米海軍第7艦隊横須賀基地の弾薬庫として使用され、ベトナム戦争後は、遊休化していたこの施設に、昭和59年、国の方針で、横須賀基地に勤める米軍人の家族住宅の建設が決まり、それに対する市民を二分する混乱が約30年間続きました。
ベトナム戦争、クウェート危機、湾岸戦争、同時多発テロ、アフガニスタン戦争、イラク戦争と、大きな紛争には必ず沖縄から空軍や海兵隊の要員が戦地に派遣されていきました。悲惨なファルージャの闘いに3,000人もの若い兵士が沖縄から送られたと言います。アメリカの帰還兵士は全体で当初毎日22人も自殺すると言います。一生涯、精神障害などに苦しみ続ける兵士は後を絶ちません。
広島・長崎の原爆投下により大量殺戮が行われ、その後、人類を破滅へと導く大量破壊兵器が次々に製造され、その後のベトナム戦争やイラク戦争などで核兵器が使用され、多くの犠牲者が出たことは否めません。その後、現在に至るまで核兵器廃絶の運動は急速に全世界へと広がり、我が国では非核宣言都市が全国に波及したわけであります。
かつて私はこの議会の中でも御紹介しましたが、ベトナム戦争に参加した元海兵隊員のアレン・ネルソンさんという方の話を聞いたことがありますが、戦場へ赴く場合は、やはり人間が人間でなくなり、そして、兵器としてなるために、そういった訓練をするんですね。
厚木基地は旧日本軍が太平洋戦争を推進した基地であり、戦後は駐留する米軍が朝鮮戦争やベトナム戦争の前線基地として厚木基地を使い、昭和39年には舘野鉄工所への墜落事故で5名の方が亡くなり、昭和52年にも横浜市緑区に米軍機が墜落し、2名が死亡する事故を起こしています。
そういうことも含めまして理解はしますけれども、ただし、ベトナム戦争のときに韓国軍がベトナムでどのようなことをしたかということについて、委員の皆様、それは御認識をいただきたいと思います。ベトナムは今ホーチミンかな。
ベトナム戦争も違法な先制攻撃でありました。 このように、アメリカの行う違法な戦争を批判することがこの間、政府はできてこなかった、集団的自衛権の行使にこういう政府が踏み出すことは、日本を戦争に巻き込むことになるということは明らかであります。 第3の問題は、安倍首相の歴史認識の問題です。あの日本がアジア諸国を侵略した戦争を間違った戦争と認めないところに大問題があります。ことしは戦後70年です。
ベトナム戦争やイラク戦争への介入の口実がうそであったことが明らかになっても、検証し、反省する立場は全くないということも明らかになりました。 第3の問題は、歴史に逆行するという問題です。戦後70年という節目の年に当たって、日本が歴史問題にどういう基本姿勢をとるかは重要な問題で、世界中が注目しています。